文法の研究は、説明できないことを 「説明できません。」 と、素直に認めるところから始めるべきだった。 素直に認められなかったのは、自分たちの言語によって近隣を支配しようとした必要から、異なる言語を使う人々に自分たちの言語を説明しないわけにはいかなかったためではなかったか。 たとえばモンゴル語の地域を中国語で支配するには、中国語で生まれ育ってはいない人々に中国語を教え込む必要がある。逆もまたしかり。 そうした政治的支配をおこなう上で、言語に説明できない部分があるのは非常に都合が悪いのだ。 説明できないのは大問題で、それを解決するためには何としてでも説明しなければならない。 「つつじってきれいだよな。」 たとえばこんな言葉を教えなければならないとしよう。そこで説明を試みる。 「つつじ」 これは現物でも見せればすぐ納得できるから説明が簡単。 「って」 この部分は、「は」「が」「も」などで言うこともあり、どれをとっても説明できない。 「きれい」 これは見た目を好意的、積極的、感動的に肯定できるという意味で説明できる。 「だ」 これは省略でき、省略した場合との意味の違いがなかなか説明できない。 「よ」 これも「だ」と同じで説明できない。 「な」 これも「だ」「よ」と同じで説明できない。 こうなると、説明できるのは「つつじ」「きれい」の二つだけ。あとの四つは説明できない。 政治的支配者である自分たちの言葉に説明できない部分があるのは都合が悪い。そこで問題を解決しなければならないのだが、解決方法は次の二つが考えられる。 (1)苦しくてもこじつけでも、とにかく説明してしまう。 (2)説明できない部分をなかったことにしてしまう。 (1)をおこなった場合、「説明」は複雑になり、矛盾も生じ、理解困難になる。日本語の「文法」がそれだ。 (2)をおこなった場合、言葉は次のようなものになる。 「つつじ、きれい。」 この言い方に何も足してはいけない、というおふれを出すとしよう。そうなると中国語だ。 「私、スイカ、食べる、欲しい。」(我想吃西瓜。) 「ここ、だめ。場所、見る、物、置く。」(這裏不行、看地方放東西。) これなら説明できない部分がなくなって都合がよい。