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中国語・韓国語・英語など、外国語と日本語の翻訳

中国語翻訳・韓国語翻訳・英語翻訳 日本語の微妙なニュアンスを外国語でも伝えたい。そんなご要望は、これからますます高まってくることでしょう。私たちの日本語は、外国人に伝えることは全然考えていないようなところがありますが、政府を挙げて外国人観光客を増やしたいという動きもありますし、欧米先進国のように、外国からの働き手の手を借りないと、国や社会が成り立たなくなってくることも避けられそうにありません。 たとえばフィリピンやインドネシアから、介護などでの労働者を受け入れる必要についてです。日本人よりも平均して明るく優しい彼ら、彼女らが、施設の高齢者のお世話をしてくれたら、しあわせになる人がきっと多いはずです。 日本発のあらゆる情報が、日本語だけでなく、中国語や韓国語、英語やタガログ語、インドネシア語などでも発信される必要は、もうすでに迫ってきています。 アドマック株式会社は、外国語が得意な広告会社として、平成20年3月6日に設立されました。代表取締役の興津も、かつて県警で中国語の非常勤通訳をしていたことがあります。中国語などの印刷データを作成するサービス業務については、すでに十年以上の実績があります。 日本の一般の印刷会社や広告会社では扱いきれない様々な外国語、中国語・韓国語・英語などの印刷製品やホームページ制作を、アドマックは得意としています。中国語翻訳・韓国語翻訳・英語翻訳から、印刷・ホームページ制作まで、すべて国境なしを実現します。 中国語翻訳・韓国語翻訳・英語翻訳

謎:熱海市と東広島市

2006年5月3日に自分で書いたブログにこのような記述がある。 日頃グーグルを検索に利用しておりましたが、どうやら致命的な欠陥を抱えているようです。 日本語に対応しているということにはなっていますが、対応しきれてはいないんでしょうね。 「熱海市」と入れて検索すると、トップに出るのは「東広島市」。いったい何がどうなってるんでしょう。 きっとこのような、あり得ない検索結果が他にもたくさんあるはずです。 皆さんもどうぞ注意してご利用ください。 ヤフージャパンでは、さすがにそういうことはないだろうと思います。 この事実、当時は非常に驚いた。いったいどうなっているのかさっぱりわからなかった。そして今でもやはり、わからない。 もうさすがにこんなことはないようだが、検索エンジンというものが、あるいはまた、プログラマーたちのコントロールを超えて暴走することもあるのかもしれない。 最近の弊社(アドマック株式会社)の検索結果は、特に Yahoo! Japan において目覚ましいものがあり、様々な検索語でトップ表示ないし、トップに近い表示が出る。地道にやってきた結果ではあるが、実は地道とはいえない面もある。 インターネットにホームページを初めて開設したのが1996年の10月。今からちょうど12年も前のことだが、もしその時から、ホームページの引っ越しをせず、同じURLで続けてきていたら、もっとすごいことになっていたはずなのだ。 それが何度も引っ越しを繰り返してやってきた。今世紀になる前にも大きな移転を3度ぐらいしている。 それから縄文ネットにほぼ落ち着いたのだが、今年になって、縄文ネットはURLだけ残して中身をそっくりアドマックに移してしまった。 こんなことをやっていると、そのうち検索エンジンから見捨てられかねない。そう思うと、もう二度と引っ越しはすまいと思う。

客観的な語と主観的な語

感動詞のことについて、本サイトでも触れていますが、もっとわかりやすい説明を試みたいと思います。 あらゆる言語の単語には、大きく分けて、客観的概念を表す語(1)と、それを表さない語=感動詞の部類となる語(2)の二種類があると考えることができます。 (1)を意義素、(2)を形態素、とする分類がありますが、「意義素/形態素」とする場合の「形態素」には、単に「語義を持たない語の部分」という意味もありますので、この分類を改め、(1)を客観的な語、(2)を主観的な語、というように考えて分類するのがいいかもしれません。 主観的な語とは、語の使用目的によって分類されるべきもので、その目的は、客観的概念を伝えることではなく、話者の説明困難な感じ方を伝えることにあります。 助詞「は」と「が」はどう違うか、それぞれの意味は何かといった問題があって、その問題を客観的に説明することは非常に困難です。様々な客観的説明が試みられてきてはいますが、誰もが納得する明快な説明が成功したという話は聞きません。 それがなぜそう困難なのかといえば、「は」も「が」も、客観的概念を伝えていないからであって、話者の主観的な“感じ方”を伝えているからです。しかも意外なことに、私たちはそれを互いに伝え合って、相互に誤解が生じることはありません。 語の使用で誤解が生じるのはむしろ、客観的説明の容易な語の方です。「議論」と「論議」などといった語は、しばしば間違って使われやすいものですが、それぞれにはっきりとした語義の違いがあっても、その語義を理解するには、客観的なカテゴリー分類のなされた客観的概念を論理的に理解するという、要するに知能というものを必要とする理解が欠かせません。 一方の主観的な語ですが、これは知能の高い低いとに関わらず、誰にでも「意味」が正しく共有されていて誤解がありません。おじいさん、おばあさんから子供まで、誰もが自由自在に使っていて、説明の必要がない語なんですね。 それでいて、そうした主観的な語を、外国人に説明することは困難を極めます。外国語として日本語を学習する学生たちは、客観的な語義説明という方法を介して日本語を理解するものですが、日本語母語話者ならお年寄りから子供まで説明を要さない主観的な語に限っては、客観的説明の成功しないケースが多すぎて、理解できないのです。

正しい語彙と、正しい日本語文法

国語が誤用されているという調査結果はしょちゅう出てきます。 きょうのニュースでも、文化庁による国語使用に関わる世論調査の結果が発表され、どうやらみなさん間違って使ってる言葉があるようですね、というような報道がありました。 これはもっぱら「語彙」と、その「語義」とを「正しく」使用しているかという調査であって、縄文ネットでおこなっているような、文法の調査ではありません。そもそも、文法が正しいかどうかということは、決して判断できないためなんですね。 誤用に関していえば、「あらたしい」が正しかったのに「あたらしい」に誤用されて、それが正しい言い方になってしまったという例を見ての通りです。夏目漱石なんかも、「簡単」ではなくて「単簡」という言葉を使っていました。こんなふうに、語彙というのは変化するものなのです。 もちろん、日本語文法も変化しています。ただし、そうした変化を誤用ととらえることが可能かどうかが難しい。 筆者の立場は、日本語のネイティブには日本語文法の誤用がないというものです。文法は、話者の主観であり、認識のあり方、認識の形式を、主観通りに発する部分だからです。そこでの誤用は誤用ではなくて、あくまでも、発した人の主観がそうだったというだけのことだと見ています。 例えば、静岡方言には「歩き」の「可能形」が少なくとも二つあって、それぞれ次のような意味になります。 「歩けえる」 歩く能力がある。足の怪我が治った。足を怪我したが歩くのに支障はない。赤ん坊が歩けるようになった。 「歩かれる」 地面、床面、路面などが歩行に支障ない。洪水が引いて道路を歩ける。工事が終わって通行できる。 静岡の人が、この二通りの言い方を、どちらも正しいと認識していた場合、「歩ける」という標準語では、どちらの意味になるか判断しかねて非常に使いづらい、あるいは使うことができないということになってきます。 それでも正しい標準語は「歩ける」だからということで、静岡の人がそれを使えば、自分の主観をちゃんと表現できませんから、その場合は、静岡の人にとって、標準語を使うことはつまり、文法的に間違った言葉を使うということになってしまいます。

「きれいだね」と「きれいね」、「いいね」と「いいわね」

「便利だね」と「便利ね」、「いいね」と「いいわね」。 これはそれぞれ前者が男性口調、後者が女性口調。 いわゆる「な形容詞」:「便利」:男性に「だ」が加わる。 いわゆる「い形容詞」:「いい」:女性に「わ」が加わる。 「な形容詞」と「い形容詞」とで、男女が逆になるようなことになっている。 なぜか。 「便利だ」の「だ」「いい」の「い」この二つに共通の意味: 「話者の主観が主導的になる 」=「請け合い」 「請け合い」は、話者の主張を前に出すという意味なので、そのままにすると奥ゆかしくない。 奥ゆかしくないというのは、女性的ではない。 そこで女性は、「便利ね」と「だ」を使わない。 そこで女性は、「いいわ」と「わ」の音の強さで「い」を相対的に引っ込める。 これがこの件についての説明の全てとなる。

説明不能の解決方法

 文法の研究は、説明できないことを  「説明できません。」  と、素直に認めるところから始めるべきだった。  素直に認められなかったのは、自分たちの言語によって近隣を支配しようとした必要から、異なる言語を使う人々に自分たちの言語を説明しないわけにはいかなかったためではなかったか。  たとえばモンゴル語の地域を中国語で支配するには、中国語で生まれ育ってはいない人々に中国語を教え込む必要がある。逆もまたしかり。  そうした政治的支配をおこなう上で、言語に説明できない部分があるのは非常に都合が悪いのだ。  説明できないのは大問題で、それを解決するためには何としてでも説明しなければならない。  「つつじってきれいだよな。」  たとえばこんな言葉を教えなければならないとしよう。そこで説明を試みる。  「つつじ」  これは現物でも見せればすぐ納得できるから説明が簡単。  「って」  この部分は、「は」「が」「も」などで言うこともあり、どれをとっても説明できない。  「きれい」  これは見た目を好意的、積極的、感動的に肯定できるという意味で説明できる。  「だ」  これは省略でき、省略した場合との意味の違いがなかなか説明できない。  「よ」  これも「だ」と同じで説明できない。  「な」  これも「だ」「よ」と同じで説明できない。  こうなると、説明できるのは「つつじ」「きれい」の二つだけ。あとの四つは説明できない。  政治的支配者である自分たちの言葉に説明できない部分があるのは都合が悪い。そこで問題を解決しなければならないのだが、解決方法は次の二つが考えられる。  (1)苦しくてもこじつけでも、とにかく説明してしまう。  (2)説明できない部分をなかったことにしてしまう。  (1)をおこなった場合、「説明」は複雑になり、矛盾も生じ、理解困難になる。日本語の「文法」がそれだ。  (2)をおこなった場合、言葉は次のようなものになる。  「つつじ、きれい。」  この言い方に何も足してはいけない、というおふれを出すとしよう。そうなると中国語だ。  「私、スイカ、食べる、欲しい。」(我想吃西瓜。)  「ここ、だめ。場所、見る、物、置く。」(這裏不行、看地方放東西。)  これなら説明できない部分がなくなって都合がよい。