スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

言葉の要らない時間

私たち人間は共存するために言葉という道具を備えていますが、これがまったく一人だけで暮らしているとなると言葉は不要になります。 本当にまったく不要なのかといえば、一人で暮らしても思考という行為をするためには、すでに習得している言葉は便利なもので、言葉があると思考がとてもしやすくなりますから、考えるという脳内の行為のためにはあった方がいいということになるかもしれません。 言葉によって思考し、思考をまた口で話したり文字に書いたりして言葉にする。そのようないわゆる精神活動というものをして生きているのが私たちなのですが、時には言葉などない方が良い結果になるということもあります。 たとえば夫婦の関係がぎくしゃくしているという時を考えてみましょう。一触即発の状況ですから、一言発するだけで神経に障るということがあります。それなら何も言わない方がいいというわけです。 またさらに、何も言わなくても表情や態度が気に障るということもあるでしょう。そんな時、原因は何かと突き詰めて考えますと、そこにはどうやら思考があるんです。思考は言葉によって行われるものですから、口にも出していない、文字で書いてもいないという場合であっても、脳内ではしっかり言葉が行われているというわけです。 どうやら思考=言葉には、正しい使い方と正しくない使い方というのがあるようで、いらいらしたり、相手を悪く思ったりという時には、思考や言葉を正しく使っていないということができるのではないでしょうか。 一触即発の関係を修復するためには、思考を完全にやめるというのも方法ですが、それもなかなか難しいですから、せめて思考や言葉を正しく使うということで心がけるしかありません。どういうのが正しいかといえば、そこはやはり相手を尊重するということでしょう。相手の存在を積極的に肯定するというのが「愛する」という言葉の定義であると、高校時代に教わった記憶がありますが、「愛する」なんていうと漠然としすぎでも、「相手の存在をただ感じて、いてくれて良かったと思う」というように思考すれば、そこからはもう喧嘩にはならないんじゃないでしょうかね。 さあ気分転換にどこかに旅行に行こうかというのも良いでしょうけれども、自分の脳内で「相手を悪く思う」という思考を続ける限りは、どこへ行ったって楽しくありません。 世界中の人々から坐禅
最近の投稿

客観的な意味ではなく、主観的な意味なら、シンプルな説明ができます。

日本語の問題というと、一般的に、語彙のことだと勘違いされることが多いような気がします。そうでなければ方言のことであるとか、あるいは敬語の使い方、といったところでしょうか。当サイト『縄文ネット』では、日本語の文法を研究対象にしています。 どういう日本語が正しいとか、正しくないとか、そういう話ではなくて、私たちが日常当たり前に使っている日本語のうち、意味が説明できない部分について、どんな「意味」を伝え合っているのか、どんな「意味」を共通の理解としているのかを問題にします。 たとえば、助詞の問題です。「が」「は」「も」などの助詞がありますが、要するにそれはどういう意味なのか? これは説明できそうでできないものです。説明しようとして分厚い本一冊の論文になってしまい、それでもまだ、「要するにどういう意味?」には答えられなかったりするのです。 どうしてそんなに意味の説明が難しいかといえば、それはつまり「客観的な意味がないからだ。」という答になるのですが、それでもまだ学者先生方は、「意味とは客観的な意味に限る」という前提におられるようで、それが問題解決に一歩も近づけない原因になっているのです。 当サイトで解明しようとする意味は、客観的ではなく、主観的な意味です。 客観的な意味が説明できなくても、主観的な意味なら説明が容易なのです。その主観的意味をしっかり共有することができているのが、私たちの集団です。集団とは、同じ言語を使っている集団のことです。

「日本語が乱れる」とは?

最近の日本語の使われ方で、廃れてきたと思われる言葉があります。それは「くれる」「くださる」です。 「お客様が使ってくださる。」「来てくださる。」「見てくださる。」 「友だちが呼んでくれる。」「来てくれる。」「見てくれる。」 こうした当たり前の、しかも最も基本となる日本語のうち、敬語表現になる「くださる」が消えてしまっている人が散見されるようになりました。彼らの言葉はしばしば・・・ 「お客様が使っていただく。」 などと、「が」「いただく」の間違った組み合わせに無頓着であり、つまり文法として明らかに間違っています。これが平然と行われるようになったのはなぜなのでしょうか。

中国語・韓国語・英語など、外国語と日本語の翻訳

中国語翻訳・韓国語翻訳・英語翻訳 日本語の微妙なニュアンスを外国語でも伝えたい。そんなご要望は、これからますます高まってくることでしょう。私たちの日本語は、外国人に伝えることは全然考えていないようなところがありますが、政府を挙げて外国人観光客を増やしたいという動きもありますし、欧米先進国のように、外国からの働き手の手を借りないと、国や社会が成り立たなくなってくることも避けられそうにありません。 たとえばフィリピンやインドネシアから、介護などでの労働者を受け入れる必要についてです。日本人よりも平均して明るく優しい彼ら、彼女らが、施設の高齢者のお世話をしてくれたら、しあわせになる人がきっと多いはずです。 日本発のあらゆる情報が、日本語だけでなく、中国語や韓国語、英語やタガログ語、インドネシア語などでも発信される必要は、もうすでに迫ってきています。 アドマック株式会社は、外国語が得意な広告会社として、平成20年3月6日に設立されました。代表取締役の興津も、かつて県警で中国語の非常勤通訳をしていたことがあります。中国語などの印刷データを作成するサービス業務については、すでに十年以上の実績があります。 日本の一般の印刷会社や広告会社では扱いきれない様々な外国語、中国語・韓国語・英語などの印刷製品やホームページ制作を、アドマックは得意としています。中国語翻訳・韓国語翻訳・英語翻訳から、印刷・ホームページ制作まで、すべて国境なしを実現します。 中国語翻訳・韓国語翻訳・英語翻訳

謎:熱海市と東広島市

2006年5月3日に自分で書いたブログにこのような記述がある。 日頃グーグルを検索に利用しておりましたが、どうやら致命的な欠陥を抱えているようです。 日本語に対応しているということにはなっていますが、対応しきれてはいないんでしょうね。 「熱海市」と入れて検索すると、トップに出るのは「東広島市」。いったい何がどうなってるんでしょう。 きっとこのような、あり得ない検索結果が他にもたくさんあるはずです。 皆さんもどうぞ注意してご利用ください。 ヤフージャパンでは、さすがにそういうことはないだろうと思います。 この事実、当時は非常に驚いた。いったいどうなっているのかさっぱりわからなかった。そして今でもやはり、わからない。 もうさすがにこんなことはないようだが、検索エンジンというものが、あるいはまた、プログラマーたちのコントロールを超えて暴走することもあるのかもしれない。 最近の弊社(アドマック株式会社)の検索結果は、特に Yahoo! Japan において目覚ましいものがあり、様々な検索語でトップ表示ないし、トップに近い表示が出る。地道にやってきた結果ではあるが、実は地道とはいえない面もある。 インターネットにホームページを初めて開設したのが1996年の10月。今からちょうど12年も前のことだが、もしその時から、ホームページの引っ越しをせず、同じURLで続けてきていたら、もっとすごいことになっていたはずなのだ。 それが何度も引っ越しを繰り返してやってきた。今世紀になる前にも大きな移転を3度ぐらいしている。 それから縄文ネットにほぼ落ち着いたのだが、今年になって、縄文ネットはURLだけ残して中身をそっくりアドマックに移してしまった。 こんなことをやっていると、そのうち検索エンジンから見捨てられかねない。そう思うと、もう二度と引っ越しはすまいと思う。

客観的な語と主観的な語

感動詞のことについて、本サイトでも触れていますが、もっとわかりやすい説明を試みたいと思います。 あらゆる言語の単語には、大きく分けて、客観的概念を表す語(1)と、それを表さない語=感動詞の部類となる語(2)の二種類があると考えることができます。 (1)を意義素、(2)を形態素、とする分類がありますが、「意義素/形態素」とする場合の「形態素」には、単に「語義を持たない語の部分」という意味もありますので、この分類を改め、(1)を客観的な語、(2)を主観的な語、というように考えて分類するのがいいかもしれません。 主観的な語とは、語の使用目的によって分類されるべきもので、その目的は、客観的概念を伝えることではなく、話者の説明困難な感じ方を伝えることにあります。 助詞「は」と「が」はどう違うか、それぞれの意味は何かといった問題があって、その問題を客観的に説明することは非常に困難です。様々な客観的説明が試みられてきてはいますが、誰もが納得する明快な説明が成功したという話は聞きません。 それがなぜそう困難なのかといえば、「は」も「が」も、客観的概念を伝えていないからであって、話者の主観的な“感じ方”を伝えているからです。しかも意外なことに、私たちはそれを互いに伝え合って、相互に誤解が生じることはありません。 語の使用で誤解が生じるのはむしろ、客観的説明の容易な語の方です。「議論」と「論議」などといった語は、しばしば間違って使われやすいものですが、それぞれにはっきりとした語義の違いがあっても、その語義を理解するには、客観的なカテゴリー分類のなされた客観的概念を論理的に理解するという、要するに知能というものを必要とする理解が欠かせません。 一方の主観的な語ですが、これは知能の高い低いとに関わらず、誰にでも「意味」が正しく共有されていて誤解がありません。おじいさん、おばあさんから子供まで、誰もが自由自在に使っていて、説明の必要がない語なんですね。 それでいて、そうした主観的な語を、外国人に説明することは困難を極めます。外国語として日本語を学習する学生たちは、客観的な語義説明という方法を介して日本語を理解するものですが、日本語母語話者ならお年寄りから子供まで説明を要さない主観的な語に限っては、客観的説明の成功しないケースが多すぎて、理解できないのです。

正しい語彙と、正しい日本語文法

国語が誤用されているという調査結果はしょちゅう出てきます。 きょうのニュースでも、文化庁による国語使用に関わる世論調査の結果が発表され、どうやらみなさん間違って使ってる言葉があるようですね、というような報道がありました。 これはもっぱら「語彙」と、その「語義」とを「正しく」使用しているかという調査であって、縄文ネットでおこなっているような、文法の調査ではありません。そもそも、文法が正しいかどうかということは、決して判断できないためなんですね。 誤用に関していえば、「あらたしい」が正しかったのに「あたらしい」に誤用されて、それが正しい言い方になってしまったという例を見ての通りです。夏目漱石なんかも、「簡単」ではなくて「単簡」という言葉を使っていました。こんなふうに、語彙というのは変化するものなのです。 もちろん、日本語文法も変化しています。ただし、そうした変化を誤用ととらえることが可能かどうかが難しい。 筆者の立場は、日本語のネイティブには日本語文法の誤用がないというものです。文法は、話者の主観であり、認識のあり方、認識の形式を、主観通りに発する部分だからです。そこでの誤用は誤用ではなくて、あくまでも、発した人の主観がそうだったというだけのことだと見ています。 例えば、静岡方言には「歩き」の「可能形」が少なくとも二つあって、それぞれ次のような意味になります。 「歩けえる」 歩く能力がある。足の怪我が治った。足を怪我したが歩くのに支障はない。赤ん坊が歩けるようになった。 「歩かれる」 地面、床面、路面などが歩行に支障ない。洪水が引いて道路を歩ける。工事が終わって通行できる。 静岡の人が、この二通りの言い方を、どちらも正しいと認識していた場合、「歩ける」という標準語では、どちらの意味になるか判断しかねて非常に使いづらい、あるいは使うことができないということになってきます。 それでも正しい標準語は「歩ける」だからということで、静岡の人がそれを使えば、自分の主観をちゃんと表現できませんから、その場合は、静岡の人にとって、標準語を使うことはつまり、文法的に間違った言葉を使うということになってしまいます。