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客観的な語と主観的な語

感動詞のことについて、本サイトでも触れていますが、もっとわかりやすい説明を試みたいと思います。

あらゆる言語の単語には、大きく分けて、客観的概念を表す語(1)と、それを表さない語=感動詞の部類となる語(2)の二種類があると考えることができます。

(1)を意義素、(2)を形態素、とする分類がありますが、「意義素/形態素」とする場合の「形態素」には、単に「語義を持たない語の部分」という意味もありますので、この分類を改め、(1)を客観的な語、(2)を主観的な語、というように考えて分類するのがいいかもしれません。

主観的な語とは、語の使用目的によって分類されるべきもので、その目的は、客観的概念を伝えることではなく、話者の説明困難な感じ方を伝えることにあります。

助詞「は」と「が」はどう違うか、それぞれの意味は何かといった問題があって、その問題を客観的に説明することは非常に困難です。様々な客観的説明が試みられてきてはいますが、誰もが納得する明快な説明が成功したという話は聞きません。

それがなぜそう困難なのかといえば、「は」も「が」も、客観的概念を伝えていないからであって、話者の主観的な“感じ方”を伝えているからです。しかも意外なことに、私たちはそれを互いに伝え合って、相互に誤解が生じることはありません。

語の使用で誤解が生じるのはむしろ、客観的説明の容易な語の方です。「議論」と「論議」などといった語は、しばしば間違って使われやすいものですが、それぞれにはっきりとした語義の違いがあっても、その語義を理解するには、客観的なカテゴリー分類のなされた客観的概念を論理的に理解するという、要するに知能というものを必要とする理解が欠かせません。

一方の主観的な語ですが、これは知能の高い低いとに関わらず、誰にでも「意味」が正しく共有されていて誤解がありません。おじいさん、おばあさんから子供まで、誰もが自由自在に使っていて、説明の必要がない語なんですね。

それでいて、そうした主観的な語を、外国人に説明することは困難を極めます。外国語として日本語を学習する学生たちは、客観的な語義説明という方法を介して日本語を理解するものですが、日本語母語話者ならお年寄りから子供まで説明を要さない主観的な語に限っては、客観的説明の成功しないケースが多すぎて、理解できないのです。

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