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謎:熱海市と東広島市

2006年5月3日に自分で書いたブログにこのような記述がある。 日頃グーグルを検索に利用しておりましたが、どうやら致命的な欠陥を抱えているようです。 日本語に対応しているということにはなっていますが、対応しきれてはいないんでしょうね。 「熱海市」と入れて検索すると、トップに出るのは「東広島市」。いったい何がどうなってるんでしょう。 きっとこのような、あり得ない検索結果が他にもたくさんあるはずです。 皆さんもどうぞ注意してご利用ください。 ヤフージャパンでは、さすがにそういうことはないだろうと思います。 この事実、当時は非常に驚いた。いったいどうなっているのかさっぱりわからなかった。そして今でもやはり、わからない。 もうさすがにこんなことはないようだが、検索エンジンというものが、あるいはまた、プログラマーたちのコントロールを超えて暴走することもあるのかもしれない。 最近の弊社(アドマック株式会社)の検索結果は、特に Yahoo! Japan において目覚ましいものがあり、様々な検索語でトップ表示ないし、トップに近い表示が出る。地道にやってきた結果ではあるが、実は地道とはいえない面もある。 インターネットにホームページを初めて開設したのが1996年の10月。今からちょうど12年も前のことだが、もしその時から、ホームページの引っ越しをせず、同じURLで続けてきていたら、もっとすごいことになっていたはずなのだ。 それが何度も引っ越しを繰り返してやってきた。今世紀になる前にも大きな移転を3度ぐらいしている。 それから縄文ネットにほぼ落ち着いたのだが、今年になって、縄文ネットはURLだけ残して中身をそっくりアドマックに移してしまった。 こんなことをやっていると、そのうち検索エンジンから見捨てられかねない。そう思うと、もう二度と引っ越しはすまいと思う。

客観的な語と主観的な語

感動詞のことについて、本サイトでも触れていますが、もっとわかりやすい説明を試みたいと思います。 あらゆる言語の単語には、大きく分けて、客観的概念を表す語(1)と、それを表さない語=感動詞の部類となる語(2)の二種類があると考えることができます。 (1)を意義素、(2)を形態素、とする分類がありますが、「意義素/形態素」とする場合の「形態素」には、単に「語義を持たない語の部分」という意味もありますので、この分類を改め、(1)を客観的な語、(2)を主観的な語、というように考えて分類するのがいいかもしれません。 主観的な語とは、語の使用目的によって分類されるべきもので、その目的は、客観的概念を伝えることではなく、話者の説明困難な感じ方を伝えることにあります。 助詞「は」と「が」はどう違うか、それぞれの意味は何かといった問題があって、その問題を客観的に説明することは非常に困難です。様々な客観的説明が試みられてきてはいますが、誰もが納得する明快な説明が成功したという話は聞きません。 それがなぜそう困難なのかといえば、「は」も「が」も、客観的概念を伝えていないからであって、話者の主観的な“感じ方”を伝えているからです。しかも意外なことに、私たちはそれを互いに伝え合って、相互に誤解が生じることはありません。 語の使用で誤解が生じるのはむしろ、客観的説明の容易な語の方です。「議論」と「論議」などといった語は、しばしば間違って使われやすいものですが、それぞれにはっきりとした語義の違いがあっても、その語義を理解するには、客観的なカテゴリー分類のなされた客観的概念を論理的に理解するという、要するに知能というものを必要とする理解が欠かせません。 一方の主観的な語ですが、これは知能の高い低いとに関わらず、誰にでも「意味」が正しく共有されていて誤解がありません。おじいさん、おばあさんから子供まで、誰もが自由自在に使っていて、説明の必要がない語なんですね。 それでいて、そうした主観的な語を、外国人に説明することは困難を極めます。外国語として日本語を学習する学生たちは、客観的な語義説明という方法を介して日本語を理解するものですが、日本語母語話者ならお年寄りから子供まで説明を要さない主観的な語に限っては、客観的説明の成功しないケースが多すぎて、理解できないのです。

正しい語彙と、正しい日本語文法

国語が誤用されているという調査結果はしょちゅう出てきます。 きょうのニュースでも、文化庁による国語使用に関わる世論調査の結果が発表され、どうやらみなさん間違って使ってる言葉があるようですね、というような報道がありました。 これはもっぱら「語彙」と、その「語義」とを「正しく」使用しているかという調査であって、縄文ネットでおこなっているような、文法の調査ではありません。そもそも、文法が正しいかどうかということは、決して判断できないためなんですね。 誤用に関していえば、「あらたしい」が正しかったのに「あたらしい」に誤用されて、それが正しい言い方になってしまったという例を見ての通りです。夏目漱石なんかも、「簡単」ではなくて「単簡」という言葉を使っていました。こんなふうに、語彙というのは変化するものなのです。 もちろん、日本語文法も変化しています。ただし、そうした変化を誤用ととらえることが可能かどうかが難しい。 筆者の立場は、日本語のネイティブには日本語文法の誤用がないというものです。文法は、話者の主観であり、認識のあり方、認識の形式を、主観通りに発する部分だからです。そこでの誤用は誤用ではなくて、あくまでも、発した人の主観がそうだったというだけのことだと見ています。 例えば、静岡方言には「歩き」の「可能形」が少なくとも二つあって、それぞれ次のような意味になります。 「歩けえる」 歩く能力がある。足の怪我が治った。足を怪我したが歩くのに支障はない。赤ん坊が歩けるようになった。 「歩かれる」 地面、床面、路面などが歩行に支障ない。洪水が引いて道路を歩ける。工事が終わって通行できる。 静岡の人が、この二通りの言い方を、どちらも正しいと認識していた場合、「歩ける」という標準語では、どちらの意味になるか判断しかねて非常に使いづらい、あるいは使うことができないということになってきます。 それでも正しい標準語は「歩ける」だからということで、静岡の人がそれを使えば、自分の主観をちゃんと表現できませんから、その場合は、静岡の人にとって、標準語を使うことはつまり、文法的に間違った言葉を使うということになってしまいます。

「きれいだね」と「きれいね」、「いいね」と「いいわね」

「便利だね」と「便利ね」、「いいね」と「いいわね」。 これはそれぞれ前者が男性口調、後者が女性口調。 いわゆる「な形容詞」:「便利」:男性に「だ」が加わる。 いわゆる「い形容詞」:「いい」:女性に「わ」が加わる。 「な形容詞」と「い形容詞」とで、男女が逆になるようなことになっている。 なぜか。 「便利だ」の「だ」「いい」の「い」この二つに共通の意味: 「話者の主観が主導的になる 」=「請け合い」 「請け合い」は、話者の主張を前に出すという意味なので、そのままにすると奥ゆかしくない。 奥ゆかしくないというのは、女性的ではない。 そこで女性は、「便利ね」と「だ」を使わない。 そこで女性は、「いいわ」と「わ」の音の強さで「い」を相対的に引っ込める。 これがこの件についての説明の全てとなる。