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日本語文法と言語学の縄文ネット ブログ

2008年7月24日木曜日

正しい語彙と、正しい日本語文法

国語が誤用されているという調査結果はしょちゅう出てきます。
きょうのニュースでも、文化庁による国語使用に関わる世論調査の結果が発表され、どうやらみなさん間違って使ってる言葉があるようですね、というような報道がありました。

これはもっぱら「語彙」と、その「語義」とを「正しく」使用しているかという調査であって、縄文ネットでおこなっているような、文法の調査ではありません。そもそも、文法が正しいかどうかということは、決して判断できないためなんですね。

誤用に関していえば、「あらたしい」が正しかったのに「あたらしい」に誤用されて、それが正しい言い方になってしまったという例を見ての通りです。夏目漱石なんかも、「簡単」ではなくて「単簡」という言葉を使っていました。こんなふうに、語彙というのは変化するものなのです。

もちろん、日本語文法も変化しています。ただし、そうした変化を誤用ととらえることが可能かどうかが難しい。

筆者の立場は、日本語のネイティブには日本語文法の誤用がないというものです。文法は、話者の主観であり、認識のあり方、認識の形式を、主観通りに発する部分だからです。そこでの誤用は誤用ではなくて、あくまでも、発した人の主観がそうだったというだけのことだと見ています。

例えば、静岡方言には「歩き」の「可能形」が少なくとも二つあって、それぞれ次のような意味になります。

「歩けえる」
歩く能力がある。足の怪我が治った。足を怪我したが歩くのに支障はない。赤ん坊が歩けるようになった。

「歩かれる」
地面、床面、路面などが歩行に支障ない。洪水が引いて道路を歩ける。工事が終わって通行できる。

静岡の人が、この二通りの言い方を、どちらも正しいと認識していた場合、「歩ける」という標準語では、どちらの意味になるか判断しかねて非常に使いづらい、あるいは使うことができないということになってきます。

それでも正しい標準語は「歩ける」だからということで、静岡の人がそれを使えば、自分の主観をちゃんと表現できませんから、その場合は、静岡の人にとって、標準語を使うことはつまり、文法的に間違った言葉を使うということになってしまいます。

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