スキップしてメイン コンテンツに移動

台湾における日本語文化 〜中国語では表現できない悲哀〜

台湾には、日本人以上に流暢な日本語を話す人たちがいて、
日本の俳句や短歌を嗜まれる人たちもいる。
戦前からの、日本語での日本の教育を受けてこられた人たちだ。

台北に住み始めたころ、ご高齢のご婦人が
選挙運動のために訪ねてこられたことがあった。
はじめ台湾語で話しかけられたが、
こちらが日本人だと告げると、
すぐ日本語に切り替えてくださった。
しかも完璧な、東京の山の手言葉だった。
じつに美しい、品のある言葉だった。

筆者の手元には、『台北俳句集(19)』がある。
「中華民国七十八年度」のもので、
発行は、「中華民国八十年三月一日」とある。
句集に参加されていた方からいただいたもので、
中華民国八十年は、平成三年、1991年となる。

内容は、64名の俳句作品を集めたもので、
いずれも日本国内における俳句出版物に
勝るとも劣らぬ高い水準の作品ばかりで、
南国台湾の風情を伝え、
日本語が、日々の生活から離れつつあることへの
哀愁をたたえてもいる。

台北俳句会をまとめてこられたのは、
第3回「正岡子規国際俳句賞」(2004年11月)を受賞された
黄霊芝先生で、『台北俳句集』は30巻に及んだ。

黄霊芝先生については、こちらに詳しい。>>

台湾で多くの人たちによって
このように日本語活動が続いてきた背景には、
戦後、中国国民党によって、日本語が禁止されてきた
その反動もあったようだ。
日本語で学び、日本語で考え、
日本語で情報を得てきた人たちから
ある日を境に、急にそれを取り上げてしまった。

時の支配者蒋介石だって、日本留学経験もあり
日本語と、日本の理解者だったはずだが、
台湾の地がいつまでも日本語に支配されることは
受け入れられなかったのだろう。

表向きは、完全に日本語を排除し、
北京官話(中国語=マンダリン)による統治が行われてきた。
それが十年、二十年、そして五十年、六十年と続いた。
気がつけば日本語支配よりも、中国語支配の年月の方が
長くなってしまった。

もとより台湾人の多くは、台湾語や客家語を母語としており、
台湾語も客家語も中国語系の言語であるから、
漢字での表記も可能だし、文法的にも中国語と大差はない。
だから中国語の受け入れは、
日本語を受け入れたころに比べれば困難ではなかったはずだ。

しかし、日本語にはあって中国語にはないものがあった。

それを簡単にいえば、
文字による豊かな主観表現と、
静かに話すときの豊かな感情表現だ。

台湾の人々が、それをこうも
簡単に説明できたかはわからないまでも、
中国語では表現できない悲哀を共有してきたことは
きっと事実だろうと思う。

コメント

このブログの人気の投稿

「日本語が乱れる」とは?

最近の日本語の使われ方で、廃れてきたと思われる言葉があります。それは「くれる」「くださる」です。 「お客様が使ってくださる。」「来てくださる。」「見てくださる。」 「友だちが呼んでくれる。」「来てくれる。」「見てくれる。」 こうした当たり前の、しかも最も基本となる日本語のうち、敬語表現になる「くださる」が消えてしまっている人が散見されるようになりました。彼らの言葉はしばしば・・・ 「お客様が使っていただく。」 などと、「が」「いただく」の間違った組み合わせに無頓着であり、つまり文法として明らかに間違っています。これが平然と行われるようになったのはなぜなのでしょうか。

客観的な意味ではなく、主観的な意味なら、シンプルな説明ができます。

日本語の問題というと、一般的に、語彙のことだと勘違いされることが多いような気がします。そうでなければ方言のことであるとか、あるいは敬語の使い方、といったところでしょうか。当サイト『縄文ネット』では、日本語の文法を研究対象にしています。 どういう日本語が正しいとか、正しくないとか、そういう話ではなくて、私たちが日常当たり前に使っている日本語のうち、意味が説明できない部分について、どんな「意味」を伝え合っているのか、どんな「意味」を共通の理解としているのかを問題にします。 たとえば、助詞の問題です。「が」「は」「も」などの助詞がありますが、要するにそれはどういう意味なのか? これは説明できそうでできないものです。説明しようとして分厚い本一冊の論文になってしまい、それでもまだ、「要するにどういう意味?」には答えられなかったりするのです。 どうしてそんなに意味の説明が難しいかといえば、それはつまり「客観的な意味がないからだ。」という答になるのですが、それでもまだ学者先生方は、「意味とは客観的な意味に限る」という前提におられるようで、それが問題解決に一歩も近づけない原因になっているのです。 当サイトで解明しようとする意味は、客観的ではなく、主観的な意味です。 客観的な意味が説明できなくても、主観的な意味なら説明が容易なのです。その主観的意味をしっかり共有することができているのが、私たちの集団です。集団とは、同じ言語を使っている集団のことです。

言葉の要らない時間

私たち人間は共存するために言葉という道具を備えていますが、これがまったく一人だけで暮らしているとなると言葉は不要になります。 本当にまったく不要なのかといえば、一人で暮らしても思考という行為をするためには、すでに習得している言葉は便利なもので、言葉があると思考がとてもしやすくなりますから、考えるという脳内の行為のためにはあった方がいいということになるかもしれません。 言葉によって思考し、思考をまた口で話したり文字に書いたりして言葉にする。そのようないわゆる精神活動というものをして生きているのが私たちなのですが、時には言葉などない方が良い結果になるということもあります。 たとえば夫婦の関係がぎくしゃくしているという時を考えてみましょう。一触即発の状況ですから、一言発するだけで神経に障るということがあります。それなら何も言わない方がいいというわけです。 またさらに、何も言わなくても表情や態度が気に障るということもあるでしょう。そんな時、原因は何かと突き詰めて考えますと、そこにはどうやら思考があるんです。思考は言葉によって行われるものですから、口にも出していない、文字で書いてもいないという場合であっても、脳内ではしっかり言葉が行われているというわけです。 どうやら思考=言葉には、正しい使い方と正しくない使い方というのがあるようで、いらいらしたり、相手を悪く思ったりという時には、思考や言葉を正しく使っていないということができるのではないでしょうか。 一触即発の関係を修復するためには、思考を完全にやめるというのも方法ですが、それもなかなか難しいですから、せめて思考や言葉を正しく使うということで心がけるしかありません。どういうのが正しいかといえば、そこはやはり相手を尊重するということでしょう。相手の存在を積極的に肯定するというのが「愛する」という言葉の定義であると、高校時代に教わった記憶がありますが、「愛する」なんていうと漠然としすぎでも、「相手の存在をただ感じて、いてくれて良かったと思う」というように思考すれば、そこからはもう喧嘩にはならないんじゃないでしょうかね。 さあ気分転換にどこかに旅行に行こうかというのも良いでしょうけれども、自分の脳内で「相手を悪く思う」という思考を続ける限りは、どこへ行ったって楽しくありません。 世界中の人々から坐禅